ケニア、外資コンサル、塾。そして見つけた「教育」という道

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―今の仕事に影響を及ぼした話を教えてください。

教育に興味を持ったきっかけは、幸福度に興味があったから。

高校生の時にタイ、カンボジアにスタディツアーに行って物乞いにあいました。僕はポケットに1000円を入れていたのですが、この1000円を子どもたちに渡すことで彼らが幸せになるかどうかが本当に分からなくて。その時恩師にアマルティア・センの「貧困と飢餓」という本を渡され読んだことで衝撃を受け、幸福度に興味を持ち始めました。

大学で研究していくと、選択肢を増やすことが幸福度に関係していることを知りました。選択肢を増やす手段として教育が大事だと知り、教育に興味を持ち始めたんです。こうして大学院で引き続き研究したけれど、グラフばかりを見る生活が幸福に関係しているのか疑問に思い始めたため、大学院を卒業してケニアに1年行くことを決意しました。

ーケニアに行ってどういう思いが芽生えましたか

ケニアでは最終的には非力さしか感じなかったです。自分が途上国に対しての幸福度を机上で考えていたけど、本当に何もできませんでした。

笑い話で言うと、建築の仕事をしていたので、レンガを見たら何個あるかを計算することだけはできるようになりました(笑)。ケニアでの経験から、自分自身がまず進化しないといけないという思いが芽生えました。

ー社会人時代の話を聞かせてください

大学2回生の時にインターンシップで外資コンサル会社に行った経験から、コンサルタントという職業への憧れを思い出し、外資コンサル全てにケニアでの経験を含めたメールを送りました。結果、IBMに内定をもらったため入社。その後5年間は、IBMとアクセンチュアで馬車馬のように働き、自分のやりたいことや将来については考えていませんでした。転機になったのは、総合型選抜の専門の塾に出会ったことです。教育に興味があったため、その塾で働く運びとなりました。

塾では2年間生徒を指導しました。その塾で出会ったある営業部長が、「高校3年生の時期だけで自分のやりたいことを見つけるのは難しいから、学校を建て高校1年生から指導するべきだ」とずっと言ってくれていたんです。その営業部長というのが、後に一緒に学校を建てることになる岡内大晟です。岡内が先に塾を退職し、その後彼から一本の電話が掛かってきました。「藤原さん学校建てられますよ、建てますか」と。僕はそのときに、何も考えず「うん、建てよう」って言っちゃったんですよね(笑)。それはもう自分がやりたいことであったし、自分の限界も感じていたからだと思います。

岡内がどう動くかを結構見てたし、塾を飛び出すかどうかを渋っていました。そんな中、岡内と会って話した時、「藤原さん、生徒に嘘ついてないですか」って言葉を言われ、実は号泣したんです。その時自分のやりたいことより現状に縛られていることを実感し、青楓館という学校を建てたいという思いを優先する決断ができました。

ギャップしかない、もっと改善していきたい。青楓館での日々

―青楓館がどういう学校で、何をしていますか

僕は青楓館高等学院という、自分らしく生きることをテーマに掲げた学校の学院長をしています。超絶自由な学校で、生徒たちの個性が溢れている学校です。今まで通信制に来る生徒は、世間的に全日制にいけなかった生徒みたいな考えがあったけれど、人と違った道を16歳で選択をすることにその生徒なりの強みがあり、個性が埋まっていると思います。

IQが高い生徒やパンを作れる生徒など、本当にいろいろな生徒がいます。5教科7科目では評価されなかったかもしれないけれど、僕らはその生徒の個性を完全に信じているし、やりたいことや得意なことで認め、伸ばせる環境をつくることが青楓館の役割であり、僕らができることだと思っています。

ー1学期を振り返ってどうですか?

ドキュメンタリーを撮ってほしいくらい激しかったです(笑)。

生徒たちが朝から1日中いる空間や授業を2時間やること自体がまず緊張しました。慣れない時期は体調的な変化があり、それが激動を物語っていたと思います。

あとは、個別最適化が思った以上に難しいことですね。1on1のやり方や授業の進め方、どういう大人を連れてくるかなどで8時間は話せてしまうほど改善点があり、優先順位をつけて実践していく。学校だけど、まるで企業のように日々動いていました。

青楓館を日本のスタンダードに。そして、10年後に答え合わせ。

―2学期、3学期をどうしていきたいですか

僕らが最終的にやりたいのは、日本を世界一の教育大国にすることです。それを逆算した時の通過点として、日本の教育の王道になることが青楓館をやる上での使命。そのために一番叶えないといけないのは人数なので、明石の校舎を満杯にすることが至上命題。しかし、人が増えるだけでなく今いる生徒たちが起業したり、進学することに注力していきたいです。

ーもっと先の未来の青楓館はどうしたいと考えていますか?

教育って一番エモい職業だと思ってる。

コンサルだと1年後2年後に売上が上がるか一瞬で分かるけれど、教育は効果が証明されるのが10年後にならないと分からない。10年後に答え合わせをすることが僕としてのこれからの楽しみであり、一番怖いことです(笑)。岡内や教員陣とキャンプファイヤーをしながら、「俺ら最強だったね」と言える状態が、理想の未来の姿かなと思います。

ー青楓館がスタンダードになったあとのライフプランはありますか

僕ら青楓館が高校や大学を創っても、今の社会のままだと生徒にとってノイズになってしまう。青楓館の生徒が社会に出た時、みんなが自分らしく生きれるスタートラインには立ったけれど、その先が自分らしく生きられる社会になってないと生徒は生きずらくなる。だから、おじいちゃんになったら社会を変える方向にシフトしていくと思います。

そうやっていいつつ、自分の好きなことは5、6人とかの生徒をチマチマ教えることなので、少人数を教える塾をしゅぽしゅぽやってるんじゃないかなと思います(笑)

ー藤原さん個人のミッションはありますか

僕個人のミッションは「できないことはない」と生徒や若者に伝えていくこと。

このミッションが生まれた原点は「足」。僕は幼少期に、デスモイド腫瘍というガンの一種を患いました。当時どうやって解決するか誰も知らず、腫瘍ができて筋肉をとらなければいけなくなり、今の足の状態になったのが小学3年生の時です。

自分のアイデンティティとして足が悪いことがあったから特に悩むことはありませんでした。しかし、中学二年生の時にテニスをやりたいと中学の担任の先生に言うと、「君は足が悪いからできないよ」という言葉を軽々しく放たれました。それが僕の人生の中で一番ショックだったことです。

それから僕は足が悪いからできないことがあると気づかされ、足を理由にサボり出しました。ある日の体育の1500m走のテストも足が悪いからと休み、家に帰ると、ここぞとないぐらい母親に怒られたのです。一番覚えてるのは「人生上、足が悪いことを理由で、あなたはすべてを諦めるの?」って言われたことで、その時に足を理由に何かを諦めることをやめると決意しました。ケニアに行くことも、大学院に行くことも、東京で就職することも、超絶きつい外資コンサルに就職することも、本当だと足が悪くてやらなかったかもしれないことを全部経験させてもらって、自ら選択もできるようになって。

この経験から生徒たちに言えることは、今自分ができないと決めていることは、結構しょうもないことなのではということ。自分に諦めてるからできないと決めているけれど、僕がやってきていることは、絶対生徒にもできる。身体的な不可能がなければね。そう言い切れる唯一の人間だから、それを将来的にも伝えていくことは変わらないです。

そして、最期は本を読みながらカリフォルニアの砂浜で死ぬ。最後までインプットして死にます(笑)

ー高校生ライター感想

藤原さんの今までたくさん経験されてきたことが、今の青楓館の一部になっていることを話を聞いて改めて実感した。私も自分にはできないことはないと自信をもって挑戦しつづけ、藤原さんのようにやりたいことで社会に貢献できる人間になりたい。

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