親は、子どもの地雷を踏んでいい。青楓館高等学院が保護者に伝えているこの考え方は、世の中の子育ての正解とは、まるで逆を向いています。
朝、つい強い声を出してしまった。言ったそばから後悔して、夜になっても引きずっている。本にも専門家にも「厳しくしてはいけない」と言われ続けて、子どもにかける言葉をなくしてしまった。そんなお父さん、お母さんにこそ読んでほしい話です。
ただし、この考え方が成り立つためには、欠かせない条件がひとつだけあります。それを抜きにすると、ただの開き直りになってしまうからです。
「厳しくしてはいけない」は、親を動けなくする
まず、なぜ逆を向くのか。理由は、保護者相談の現場にあります。青楓館に寄せられる相談の多くは「ふとこうなってしまって、どうしたらいいか」というもの。そして多くの親が、「うちの場合は特殊なんだ」と話します。その言葉の奥にあるのは、答えがほしいというより、この家の事情を分かってほしい、という切実な気持ちです。
文部科学省の調査では、令和6年度に不登校とされた小中学生は35万3970人。12年連続で増え、過去最多になりました。*1 この数字は、「よくあることだから、気にしなくていい」という話ではありません。35万件の同じ悩みがあるのではなく、35万通りの、その家だけの事情がある。うちの場合は特殊だ、という親の感覚は、その通りなのです。
そして、特殊なのは子どもの側だけではありません。親には親の、その人だけの事情があります。いまの高校生の親には、40〜50代の就職氷河期世代が少なくありません。勉強するのが当たり前で、厳しく育てられてきた世代です。その感覚からすれば、すでに精いっぱい寄り添っているのに、「まだ甘やかしが足りないのか」。それが本音ではないでしょうか。
さらに、世間には「不登校は甘えだ」という声も、いまだに根強く残っています。甘やかすなと言う人がいて、厳しくするなと言う人がいる。どちらの声も、その家の事情には触れないまま、親だけを板挟みにします。そのうえで相談先から返ってくるのが、「今は多様性の時代なので、厳しくするのはダメですよ」という言葉です。反論はできない。でも、実行もできない。そうして親は、子どもにかける言葉を失っていきます。
青楓館が「踏んでいい」と言うのは、この行き止まりを知っているからです。

親子は、もともとすれ違うようにできている
教育のプロの目から見れば、たしかに親は、子どもの「地雷」を次々に踏んでいるように見えます。「宿題やりや」「いいから出てきなさい」。教育の理屈とは関係のない、理不尽な言葉。思わず口をついて出てしまう一言は、どの家庭にもあります。
それを全部なくすべきだ、とは青楓館は考えません。親であれば、理不尽は最低限あっていい。むしろ親が言うからこそ、理不尽な言葉でも、反発にならずに、子どもにストンと入っていくことがあります。他人に言われたら受け入れられない言葉でも、親だから届く。親子とは、もともとそういう関係です。
実は、この見方には発達心理学の裏付けがあります。親子のやりとりを細かく観察した研究によると、仲のよい、安定した親子でさえ、気持ちが噛み合っている時間は全体の3割ほどしかありませんでした。残りの7割は、すれ違ったり、読み違えたりしている(エドワード・トロニックらの乳児研究)。*2 完璧に通じ合う親子は、研究の上でも存在しないのです。
すれ違いは、子育ての失敗ではなく、親子のもともとの姿です。だとすれば、地雷を一度も踏まない子育ても、この世に存在しません。存在しないものを目指してきたから、踏むたびに自分を責めることになっていた。自分を責める理由が、ここでひとつ消えます。

大事なのは、踏んだあとです
この研究には、続きがあります。すれ違いだらけの親子を観察して分かったのは、子どもの心の育ちを支えていたのは、すれ違いの少なさではなく、すれ違ったあとに、また仲直りする経験の積み重ねだったということです。ぶつかって、また戻る。その繰り返しのなかで、子どもは「関係は壊れても、立て直せる」ことを学び、立ち直る力を身につけていきます。
大事なのは、踏まないことではなく、踏んだあとなのです。ここで、はじめにお話しした条件の出番です。「踏んでいい」と、ただの開き直りを分けるもの。それは、踏んだあとに立て直してくれる第三者がいるかどうかです。
お母さんが地雷を踏んだら、お父さんが対応する。お父さんが踏んだら、お母さんが対応する。おじいちゃん、おばあちゃんが対応する。学校の先生が、立て直しの一手を打つ。誰かひとりが完璧である必要はなく、誰かが踏んだら、別の誰かがフォローに回ればいいのです。
だから、踏まないように黙り込むのは、方向が逆です。踏んでも立て直せる体制を、家庭の内と外につくっておく。それが「地雷を踏んでいい」の本当の意味です。
そして、家庭の外の第三者のひとりに、学校を数えてほしいと青楓館は考えています。保護者に伝えているのは、我慢でも反省でもありません。地雷を踏んでも、こちらで何とかするので、大丈夫です。第三者の側からそう言い切ることが、学校の役割のひとつだからです。

それは「愛ゆえの誤解」だから
踏んでしまうのは、言葉だけではありません。「この子は学校に行きたくないと思っている」「社交性がない」「やりたいこともない」「ゲームしかしない」。親は、我が子のことをそんなふうに捉えてしまいがちです。そして、その多くはおそらく誤解です。
でも、それは愛ゆえの誤解です。我が子のことを一番分かっていると思っているし、我が子の将来を誰よりも真剣に考えているからこそ、「この子はこういう子だ」と決めつけてしまう。地雷を踏むのも、決めつけてしまうのも、根っこは同じ。真剣だからこそ、起きることです。
半世紀以上前から、子育ての世界には「ほどよい母親」という言葉があります(イギリスの小児科医ウィニコット)。子どもの育ちに必要なのは、なんでも完璧に応えてくれる親ではなく、ときどき失敗する、ほどほどの親だ、という考え方です。親の小さな失敗があるからこそ、子どもは思い通りにならない現実を知り、そこで生きていく力を育てていく。*3 完璧でないことは、子育ての欠点ではなく、子育ての一部なのです。
だとすれば、責める必要はありません。完璧な親であろうとするより、踏んだあとに支えてくれる誰かと、つながっておくこと。夫婦でも、祖父母でも、学校の先生でも構いません。
親も親で、いっぱいいっぱいです。それでいいのです。地雷を踏んでも、いい。そう言ってくれる第三者を、どうかひとりで探さずに、頼ってみてください。
参考文献
*1: 文部科学省|令和6年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果及びこれを踏まえた対応の充実について(通知)
*2: Tronick, E. Z. and Gianino, A.|Interactive mismatch and repair: Challenges to the coping infant
*3: 茨城県教育委員会 家庭教育応援ナビ|ほどよい母親(グッド・イナフ・マザー)



