「個性を大切に」「好きなことを伸ばしてあげて」。世の中は、そう言います。でも、うちの子の「好き」は、ゲームです。今日も、ドアの向こうからゲームの音が聞こえています。夕食に呼んでも、生返事。一日じゅう、画面の前から動きません。
これを「個性」と呼んで、いいのでしょうか。いいわけがない気がする。かといって、取り上げてどうにかなる気もしない。個性、多様性という言葉は聞こえてくるのに、うちの子をどうすればいいのかは、宙ぶらりんのままです。
この宙ぶらりんに、青楓館高等学院は「個性と品性」「自由と責任」という、ふたつの考え方で答えます。そしてその答えは、ゲームを取り上げることでも、ゲームに賭けることでもありません。
あなたの違和感は、正しい
まず、答え合わせからです。「ゲームばかりの毎日を、個性と呼んでいいのか」。この問いをほどくために、青楓館にはふたつの物差しがあります。「個性と品性」、そして「自由と責任」です。
ひとつめの物差し。電車のなかで騒ぐのは、個性でしょうか。違いますよね。あれは、わがままです。個性とわがままを分けるのは、品性です。周りに受け入れられるだけの品性を伴ってはじめて、それは個性と呼べるものになります。
ふたつめの物差し。「ゲームをしたい」という気持ちそのものは、わがままではありません。あれは、自由です。ただし、自由には、その裏側で果たすべき責任がセットになっています。責任を置き去りにして、したいことだけをする。そのとき、自由はわがままに変わります。
この物差しを当てれば、答えは出ています。責任のない「ゲームをしたいだけ」の毎日は、個性ではなく、わがままです。だから、「それでいいわけがない」というあなたの感覚は、間違っていません。世間の「個性を尊重して」という言葉に、うなずき切れなかったその違和感は、正しいのです。
生の「好き」は、まだ個性ではありません。責任と品性を身につけて、社会に受け入れられる形に育ってはじめて、個性になる。青楓館が生徒に教えているのは、この両方です。片方だけを認めて放っておけば、ただのわがままのまま終わってしまいます。

ただし、正面から説いても、動きません
それなら話は簡単です。「自由には責任があるんだよ」と、本人に言い聞かせればいい。……そう思って、もう試したのではありませんか。そして、動かなかったはずです。
大人はつい、「やりたいこと」を先に見つけさせようとします。「ゲームなんて将来の役に立たないんだから、ほかにやりたいことを見つけなさい」。心配だからこそ、そう言いたくなります。でも、順番が逆なのです。
人は、やりたいことから動き出すのではありません。つながりができて、認められて、その先でやっと、やりたいことが見つかります。
好きなものをきっかけに、誰かと同じ時間を過ごす。友達ができて、「人とつながりたい」という欲求が満たされる。すると「認められたい」という気持ちが生まれ、認められる経験の先で、ようやく「自分はこれがやりたい」が立ち上がる。責任や品性の話が本人に届くのも、この階段をのぼり始めてからです。
考えてみれば、大人も同じです。周りが否定しかしない環境で能力を発揮できる人は、ごくわずかです。むしろ大人こそ、そういう場所を避けます。子どもだけがアウェーのなかで「やりたいことを見つけて、頑張れ」と言われているのだとしたら、それは、酷な話です。

ゲームから、ではなく、あらゆる入口から
では、階段の一段目は、どうつくるのか。ここが青楓館のアプローチの核心です。ゲームが好きな子だからゲームで釣る、という単純な話ではありません。仕掛けるのは、ありとあらゆる入口です。

「個性」という言葉の、答え合わせ
「個性を大切に」という世間の言葉は、大切にした先のことまでは教えてくれませんでした。だから、宙ぶらりんだったのです。
答えは、こうです。生の「好き」は、まだ個性ではない。責任と品性を身につけて、社会とつながれる形に整えられたとき、それがようやく、個性になる。
そして、そこへ向かう道は、ゲームを取り上げることでも、正論を説くことでもなく、無数の入口を仕掛けて、つながりから育てていくこと。実際、最初はゲームがきっかけだったのに、動き出してみたらゲーム以外のやりたいことが見つかった。そういう子が、とても多いのです。
この設計を、家庭がひとりで背負う必要はありません。入口を並べ、接点を見つけ、そっとつなぐのは、伴走のプロの仕事です。親にできるのは、その子の「好き」を、頭ごなしに否定しないでいること。まずは、そこからで十分です。



