オーストラリア東海岸の町、バイロンベイ。観光客でにぎわう通りにビニールシートを広げ、ヤシの木と海の絵をその場で描き上げては売っていく、ひとりの日本人がいました。1枚約3,000円。よく売れる日もあれば、暑さの中、全く売れない日もある。妻とふたり、そんな路上の暮らしを続けていました。
その人は、いま兵庫県明石市で、高校生の前に立っています。青楓館高等学院 明石校校舎長の織田尭(おだ・たかし)さん。大手化学メーカーを辞めて路上の絵描きになり、起業支援や行政の仕事を経て、教育の世界にたどり着いた人です。
好きなことで、食べていけるのか。多くの保護者が我が子に対して抱くこの問いに、人生まるごとで答えてきたのが織田さんです。この記事では、織田さんがどんな人生を歩んで、なぜ子どもたちの前に立っているのかを、本人の言葉でお届けします。
構成・取材/Flying Penguin編集部
【プロフィール】
織田 尭(おだ・たかし)
青楓館高等学院 明石校校舎長・経営企画室長。台湾生まれ、オランダ育ち。大学卒業後、大手化学メーカーに入社し、新卒初の経営企画に配属される。退職後、クラウドファンディングで資金を集め、妻とオーストラリアへ。路上で絵を売りながら4都市を旅する。帰国後は起業支援施設「スタートアップカフェ大阪」のコーディネーター、子ども向け探究スクールの校長、神戸市のイノベーション支援担当を歴任し、2025年9月より現職。生徒のアートを社会に届けるプロジェクト「Hotaru BASE」の責任者。夢は「世界全員アーティスト化」。
「おだっち」と呼ばれる校舎長
織田さんの肩書きは、明石校の責任者である「校舎長」。教員たちとともに、生徒一人ひとりの個性を社会に届けるのが仕事です。1on1、プロジェクト、進路。生徒への伴走の最前線に立つのは各教員で、織田さんはその判断や方向性の相談を受け、一緒に考える立場にいます。
では、生徒とはどう関わっているのか。本人は、少し変わった言葉で説明します。
「僕は『召喚獣』って言ってるんですけど。教員のみんなが一番近くで生徒に伴走してくれている中で、僕から違う切り口で伝えた方がいい、というタイミングで、召喚獣みたいに呼んでもらうことが多いです」
生徒からの呼び名は「おだっち」。企画の人として見ている子もいれば、アートの人として見ている子もいて、日常では遊ぶようなフラットな会話が多いといいます。そんな織田さんに、どんな存在でありたいかを尋ねると、返ってきたのはこんな言葉でした。「嘘なく生徒に『社会人おもろいよ』『大人おもろいよ』って伝えられる存在でありたい」。自分の人生を最大限に面白がるために、青楓館という場が一番適している。だから嘘がない、というわけです。
その言葉に嘘がないことは、ここまでの半生が証明しています。順を追って見ていきましょう。
テスト用紙の裏は、いつも絵だらけだった
織田さんは、父親の駐在先の台湾で生まれ、5歳から12歳までは母親の駐在でオランダに暮らしました。日本に戻ってからの中学・高校時代は、朝も昼も放課後も、1日7、8時間テニスをする毎日。大学ではラクロス部に入り、部活と筋トレに明け暮れる、本人いわく「脳筋」の学生生活でした。
絵は、その間もずっとそばにありました。テスト用紙の裏は、いつも絵だらけ。今でも当時の紙が出てくると、裏には絵がびっしり描いてあるそうです。ただ、絵を仕事にしようとは思っていませんでした。
「どの学校に行っても、僕より上手いなって思う子が絶対に何人かいたので、絵を仕事にするのは僕だとは思い切れずに。『絵は描きたい時に描くものだよな』って思ったのが、大学生活まででした」
好きだけど、上には上がいる。だから趣味でいい。多くの人が身に覚えのある、静かな結論です。織田さんの人生が動き出すのは、この結論が崩れてからでした。

「なんで僕だけ」と、3年間の好き探し
就職活動の軸は「とりあえず海外に行きたい」。それだけでした。海外比率の高い大手化学メーカーに入社します。ところが、営業として採用されたはずが、配属は急遽、新卒では初めてという経営企画に。実はその後の海外企業買収に備えた人材育成だったのですが、買収案件ゆえに理由は知らされません。
「『なんで僕だけ営業じゃないんだろう』『なんで僕だけ、朝から晩までエクセルを見てるんだろう』。そんな問いがあった状態で、3年間でした」
原価管理や売上分析は、探せば自分より得意な人がいくらでもいそうな領域に思えました。そして何より。「人生がこのままのキャリアになるのが、怖くなってしまった」。それが退職の一番の理由だったと、織田さんは振り返ります。
ただし、いきなり辞めたわけではありません。2年目から始めたのは「自分の好き探し」でした。一人旅。マラソン。M-1グランプリとR-1グランプリへの出場。劇団ひまわりに応募して3ヶ月だけ活動。海外から服を買い付けて売る転売。民泊事業。思いつくものを、本当に全部やりました。
その結果、気づいたことがあります。思いつくものを全部やってみて、絵だけは3年間ずっと描き続けていた。そんな折、インスタグラムで発信していた絵に「買いたい」という人が現れます。「僕の絵が、売れるのか」。この衝撃から、犬の絵をひたすら受注する副業が始まり、「売れる」と「描ける」の両方に手応えを得たところで、3年目に退職。クラウドファンディングで資金を集め、妻とともにオーストラリアへ、絵描きの旅に出ました。
オーストラリアの路上で、絵を売って暮らす
なぜ日本ではなく、オーストラリアの路上だったのか。答えは意外なほど現実的です。「そっちの方が儲かると踏んだんです」。国内で出会った絵の師匠の一人が、世界中の路上で絵を売りながら暮らす絵描きでした。その人に半分弟子入りし、情報を集めた上での判断でした。
とはいえ、旅の始まりは苦いものでした。最初に入ったゴールドコーストでは、条例の変更で路上のルールが厳しくなった直後。場所を探してはビニールシートを広げ、警察が来る。その繰り返しで、最初の1週間はまったく売れませんでした。「え、やばっ、てなって。妻も一緒に会社を辞めて来ているので、本当に最初は怖くて」。
転機は、路上経験者たちから「ここならいける」と聞いていたバイロンベイ。通りに出た初日に、描いていた犬の絵が売れました。現地の路上仲間から売れやすい絵柄を教わり、ヤシの木と海の絵をその場で仕上げる「即席の一枚」も編み出します。1枚3,000円ほどの絵を「明日までに15個用意してくれ」と、お土産代わりにまとめ買いされることもありました。
ケアンズ、バイロンベイ、メルボルン、シドニーの4都市を回り、うち3都市では1日5,000円から3万円ほどを売り上げる日々。店が開く朝9時、10時に路上へ出て、日が暮れる前に店じまい。「音楽の人たちは夜も儲かるんですけど、絵は夕方までが勝負なんです」。物価が高く路上の規制も厳しいシドニーで赤字になったのを機に、日本へ帰る決断をしました。

破れかぶれの旅では、なかった
会社を辞めて、海外の路上で絵を売る。文字にすると、無謀な冒険譚に見えます。実際、周囲からは反対の声もありました。それでも織田さんが跳べたのには、理由があります。クラウドファンディングで応援者と資金が集まっていたこと。会社員時代の貯金があったこと。そして、渡航前に一度就職活動をして、納得できる2社の内定を得ていたこと。「これが揃っていたら、よほどのことがない限り復帰できる」。そう見えてから、跳んだのです。
「僕は根っこでは臆病なタイプでもある気がするんです。オーストラリアに行った時も、実は、めちゃくちゃたくさん石橋を叩いた上でジャンプした感覚がすごくあって」
めちゃくちゃ石橋を叩いた上で、ジャンプする。チャレンジと無謀を分けるのは、この設計の有無です。帰国後の判断にも、それは表れています。日本の路上は単価の桁が違うこと。個別受注は「いつ来るかわからない水物」で仕組みにできないこと。そして、描きたくない日にも描かなければいけない苦しさ。それらを帰国後のひと夏で実際に試して確かめた上で、絵を「副業」に切り替えました。挑戦だけでなく、撤退までが設計のうちでした。
「人生で一番おもろい授業」に出会う
帰国後の織田さんは、TSUTAYAを運営するCCCに入社します。配属されたのは、前年に立ち上がったばかりの起業支援施設「スタートアップカフェ大阪」。起業したい学生や若者の相談を、年間400件ほど受け続けました。「起業したいのかどうかわからない人も含めて、『やりたいことって何だろう』という相談をひたすら受けていた」。この経験は、のちの仕事の土台になります。
新規事業として自ら提案した、子ども向けの探究スクールも立ち上げました。宇宙、哲学、アート。一風変わった習い事が20個集まったスクールの校長として、小学生たちに学びを届けます。しかしコロナ禍で事業はクローズ。その少し前、家庭の事情で月謝が払えなくなり、通えなくなった子がいました。その子はとても楽しみにしていたのに、お金をもらわなければ提供できない。この経験が、公教育への関心を芽生えさせます。
次の職場は、神戸市役所でした。若手起業家を支援する任期付きの専門職。「絵を描いていたような、行政からしたら遠そうな人間をよく取ってくれた」と本人が笑う採用枠は、たった1人だったそうです。若者向けの施策に4年間携わりました。
そしてこの神戸市時代、織田さんの人生観を変える出会いがありました。市役所の有給を取り、毎週2時間だけ通った、関西学院高等部でのアートの授業講師の仕事です。学校からの依頼は、こうでした。「いい子が多いし、まとまっちゃっている気がする。だから壊してくれ」。
織田さんはその依頼に応えます。自分の推しているものの価値を上げて、街で物々交換をして帰ってくる課題を生徒に課す。頭突きと拳だけで絵を描くアーティストをはじめ、年に30人ものゲストを招いた授業。文化祭では、テーマのない自己表現の場を用意し、「自分というものを自分で説明したアート作品」を出すことをゴールに据えました。
「神戸市の仕事は、めちゃくちゃ面白かったんです。でも、関学のアートの授業は、自分の人生の中でも、面白さで言うと一番おもろい仕事で」
ただし、それは年間40時間だけの非常勤でした。人生で一番面白いことが、年に40時間しかできない。この気づきが、織田さんをフルタイムの教育の世界へ向かわせることになります。

世界全員アーティスト化
会社員、路上の絵描き、起業支援、スクール校長、行政マン。一見ばらばらの経歴ですが、織田さんは「一つだけまとまりがあるとすれば」と前置きして、こう語ります。
「化学メーカーにいた時、自分の個性が生かされていなかったと感じた経験があったので、『個性がみんな生かされる世界にしたい』というのが、自分の人生のミッションだと思っていて。それを僕は『世界全員アーティスト化』という言葉で持っていました」
ここでいうアーティストは、絵が描ける人のことではありません。個性を生かして生きる人は、みんなアーティスト。起業家も、会社の中で自分の得意を生かして働く人も、織田さんの定義では立派なアーティストです。
そして、その「個性を本当に社会に届ける仕組み」を持っている場所として出会ったのが、青楓館でした。神戸市時代に代表の岡内、学院長の藤原と面識があり、2023年にはゲストスピーカーとして授業も担当。入職前に見た生徒のプレゼン大会「楓杯」では、「こんな自己開示、大人でもやってる人いないぞ」と衝撃を受けたといいます。気になることをすべて聞き、自分が腹落ちしてから、2025年9月に入職。行政でスタートアップ支援をしてきた目から見ても「想像以上にしっかりした土壌」で、生徒は「想像した以上に多様」だったそうです。

意味のないことが、突破口になる
織田さんを検索すると、少し不思議な活動が出てきます。TEDxKobeの舞台で披露したコマネチ。意味を持たない言語での動画発信。本人はこれらを「枠を外していく」ための表現だと説明します。
「コマネチを1万回した時も、無駄だし、生産性もないし、体力も使うし、恥ずかしい。一個一個あげると、やらない理由しか出てこないんです。それでも、なんかわかんないけど面白いとか、話題になるとか。近視眼で見ると意味がないけど、結果的にポジティブに働くものを、僕はアートとして表現していきたくて」
AIが進めば進むほど、世の中の合理化は進みます。だからこそ、合理性の外側にあるものに、人生の醍醐味や突破口があるんじゃないか。織田さんはそう考えています。このスタンスで生徒と話すことが、「召喚獣」として呼ばれる理由の一つでもあります。大学か就職か、どの選択肢もしっくりこないと悩む生徒と、枠の外側の話をする。それができる大人が、校舎に一人いるのです。
子どもが「路上で絵を売る」と言い出したら
最後に、保護者の方が一番気になるであろう質問をぶつけました。もし子どもが、準備もないまま、突飛なチャレンジをしたいと言い出したら。織田さん自身、会社を辞めて路上の絵描きになると決めたとき、周囲から「めちゃくちゃ言われた」経験の持ち主です。
答えは、意外なほど落ち着いたものでした。大人が誰も止められないほど突き抜けて突っ走る子は、実際にはめったにいない。だからこそ、突飛な挑戦が持ち上がったときには、リスクの部分だけを大人が一緒に見て、教員と保護者が納得できるまで伝えていく。それが青楓館のやり方だといいます。そして、もし生徒から直接相談されたら。
「僕は、地盤を固めながら生きる方法を、実は提案しちゃうと思いますね」
石橋を叩き抜いてからジャンプした本人だからこその、重みのある言葉です。挑戦をあおるのでもなく、頭ごなしに止めるのでもなく、リカバリーの道筋ごと一緒に設計する。そういう大人が隣にいてくれるなら、子どもの「好き」は、無謀にも空想にもならずに、社会へつながる道を歩き始められるのかもしれません。
(次回は、織田さんが責任者を務めるアートプロジェクト「Hotaru BASE」について。生徒の「好き」が、どうやって作品になり、社会に届いていくのかを伺います。)



